税金

帯広民商50周年記念対談③  より大きく、強い組織へ


  昭和40年12月12日、全国の民主商工会結成の動きに呼応する形で、帯広にも民主商工会が結成された。
  それから半世紀、創立メンバーの一人でいまだ現役で理容業を営む塩浩一さんと元事務局員で現在は宅建業を営む理事の宮下三郎さんに、対談形式で民商50年を語っていただきました。

帯広民主商工会50周年記念誌より
photo and text Tetsuya Aoyama, 2015/8/24

IMG_3159塩 浩一 しお-こういち
 昭和8年、大阪生まれ、旧姓は豊臣家臣の佃。
 1歳で猩紅熱に罹り一度死亡診断を受けるが、奇跡的に生還。
 しかし、聴力を失う。帯広にて塩理容所を開業。
 帯広民商の立ち上げメンバーの一人。

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宮下 三郎 みやした-さぶろう 
昭和22年、群馬生まれ 
昭和45年民商事務局として23才のとき、帯広民商入局 
その後、宅建の免許を取得し、宮下宅建(株)を設立開業 
現在、民商理事
 


 より大きく、強い組織へ

← ② 会員を増やして、税務署に負けない組織に

 昭和47年、さらに会員が増えていったことで税務署がこれじゃいかんと、民商会員に一斉に税務調査をして来た。当時400 人ほどの会員に68件。
 事後調査だけでなく、事前調査なんかもあったけど、今の会員数からすると170 人位になる、そのぐらい一気に入った。
 税金の計算は班を中心にすることになったが、税務調査は「税務署が来た」と連絡がはいれば、税対部の役員が、人様の税務調査に仕事を休んですぐに駆けつけるということをやっていた。

 安達さんなど、税対の役員さんは、連日連夜対応していくもんだから、税務署に対する対応もものすごく強くなっていった半面、少ない役員に負担があまりにも多くなっていったあまりに件数が増えてしまったものだから、税務調査も班を中心にやろうと。そういう方針を立てて対応した。
 これが、民商を、班をさらに強くするということになっていった。


十勝に広がる、自主申告の波

 48年3月に、※日農 が49名、民商が437 名で集団申告、正式に統一行動としたのがこの年から。

 3・13統一行動ね。

 当時、民商から農家の人たちも自主申告しませんかと、農村を廻って講習したことがあって、日農で一気に自主申告する人が増えた。
 それまでの農家の申告は、作付け等に応じて部落長が税金を「はい、あんたいくら」と決めていたんですよ。
その税金というは、部落と税務署が決めていた。

 当時、12月に十勝川温泉で、税務署と部落の税対長が集まって、「あなたの部落はいくら」と談合でノルマが決められて、部落に持ち帰って各農家に税金を割り振っていた。
 そんな税金の掛け方が、農家にはまだ残っていた。

 その中で、日農に入って自主申告する農家がでてしまうと、税金の割り振りする数が減ってしまうんですよ。
そうすると、残った農家は自主申告する農家を村八分だということでケンカになる。
さらに、税務署が絶対に農家は自主申告させたらだめだと、札幌国税局が全道から調査官を動員して、突然畑まで行って調査だなどと攻撃していく、要するに「日農に入ったらこうなるぞ」と見せしめにするようなことをやっていった。

 だけれど、農家の中で自主申告が当たり前だろうという声が当たり前のように強まり、昭和50年頃になると、農民同盟でも自主申告しようという、税金は自分で決めるんだという方針をだしたんですよ。
また、大津や広尾などの漁民も同じように、上から税金を決められていた。

 これも、集団で民商に入ってきて、農民と同じように税務署から、一斉に税務調査や嫌がらせの更正
決定を受けるなどでいじめられる中、みんなで団結して札幌まで行って闘って自主申告を勝ち取っていったんですよ。漁民の団結は本当にすばらしいものがあった。



帯広民商、そしてこれから

 民商に入っていてうれしいのは、「入っていて良かった」という会員さんの声が聞けたとき。税務調査や、商売の問題を一緒に解決して、その後もずっと民商に入ってくれているのを見ると良かったなと思うね。最近は班会に人が集まらなくなってきている、その要因には少しでも稼がなきゃという業者の厳しい状況もあると感じるけれども、やはり班に結集して、若手の役員が次を担っていってもらいたいと思うね。

 民商は勉強会を常々やってきていて。名の知れた識者を呼んで学習していこうというのがあって、「どんと来い税務署」の著者吉田敏幸さんや日大教授の北野先生や立正大の浦野先生、また参議院議員の正森さんなど国会議員なんかも呼んで、中央の人たちとのパイプを作って、なにかあればバックにそういった人たちもいるんだぞというのは、やはり作っておかなければいけないだろうと思う。これが、会員を元気付けることになるし、全国の運動の中で活動している自覚や誇りになると思う。

 本当に民商作ってよかったなと、「自分で計算したら税金が安くなった」とか「病気や怪我で共済から見舞金もらえた」とかその言葉を聴いただけでも、民商を作ってよかったなと思う。

 帯広十勝に民商がなかったらと思うと、ぞっとするよね。

 本当にそう思う。今後民商は、安泰だなと、なくならないと思っている。今の三役・役員さんもすばらしい人物がなっているからね。

いつ死んでもいいわ(笑)こんな、すばらしい組織を作れたんだから。


帯広民商50周年記念対談②  会員を増やして、税務署に負けない組織に



  昭和40年12月12日、全国の民主商工会結成の動きに呼応する形で、帯広にも民主商工会が結成された。
  それから半世紀、創立メンバーの一人でいまだ現役で理容業を営む塩浩一さんと元事務局員で現在は宅建業を営む理事の宮下三郎さんに、対談形式で民商50年を語っていただきました。

帯広民主商工会50周年記念誌より
photo and text Tetsuya Aoyama, 2015/8/24

IMG_3159塩 浩一 しお-こういち
 昭和8年、大阪生まれ、旧姓は豊臣家臣の佃。
 1歳で猩紅熱に罹り一度死亡診断を受けるが、奇跡的に生還。
 しかし、聴力を失う。帯広にて塩理容所を開業。
 帯広民商の立ち上げメンバーの一人。

IMG_3146
宮下 三郎 みやした-さぶろう 
昭和22年、群馬生まれ 
昭和45年民商事務局として23才のとき、帯広民商入局 
その後、宅建の免許を取得し、宮下宅建(株)を設立開業 
現在、民商理事 


会員を増やして、税務署に負けない組織に
←前回 帯広民商結成、そして初めての集団申告

 それからは、会員を増やそうと燃え上がって、チラシを印刷して商店街やら企業なんかにも入れて同業の床屋さんもまわって、ずいぶん入ってくれたよ。

 資料を読むと昭和45年3月13日に初めて、全国バラバラだった集団申告を一斉に13日にして、統一行動にしようということで決めてやったと。

 そう。

 そのとき帯広で集団申告したら、正面玄関に入れてくれないと、ウラ玄関にまわされたと書いてあるけど。

 そこにテントを張って中に入れさせないというのと、ほかの納税者を刺激させないように、民商の方に走っていったら困るということで。

 そうか、見せたくなかったんだ。
申告書をそのままだして、受理されている姿をね。

 ウラ玄関に回されたことは、みんな怒ってね。その怒りが、仲間を増やさなければ
というのになっていった。

 「民商は大海に浮かぶ笹舟だ」と当時の国税庁の長官が発言したのがあるんだけど、全国的に民商つぶしの税務調査が強まっていて、それには「数で力」と会員を増やして
対抗していこうと会員倍化運動が提起された。

 その中、帯広民商が当番で全道総会を帯広でやった。
 当時230 名くらいだった帯広が、全道総会を成功させた勢いにのって、秋の拡大運動1ヶ月で300 名にしようと。

 それ覚えているわ。

 会員から知っている業者を上げれ上げれと、事務所に張り切れないほど短冊を下げて。そこに毎日あたれあたれと、ものすごい勢いで300 名を達成させた。あれはさすがだったなと。

 私らも拡大したとき、民商なにか良いことあるのかと聞かれたときは、あなたたちは税務署のいいなりで高い税金払っている、私たち民商は自分で計算して自分で税金を決
める、だから結果的に安くなると。
 そうして、床屋さんも十数件入ってくれた。それが魅力で、どんどん入ってくれた。

 税務署に高く取られていたんだね、それが自分で計算すると、結果安くなるというのが魅力だったんだ。
その翌年46年は、民商の大きな転換期になった。

 それまで役員さんが一人ひとり会員の申告の手伝いをしていたけれど、自分で申告したことない新会員が一気に増えすぎてしまったものだから、「もうできねえ」となってしまった。
 これは地域の班でやるしかないと、当時全商連方針で班を中心にといわれていたこともあって、「もう、個別では対応できません」といって、地域の班で会合でやろうと、来られない人もまとめて日にちを決めてやりましょうという中で、帯広民商の班作りが始まった。

 その中で、3回、班で講習を受けなければいけないですよと、1回目は情勢の学習、2回目は自主計算とは、3回目からようやく申告書が作成できる。これを方針を立てて徹底してやった。
 これは、班に会員さんが結集することに、大いに役立ったし、税対役員もそうだけど、人に教えなきゃいけないということで、班長などの役員も大きく育てた。
 そして当時画期的だった、班を中心とした活動の基礎が確立されていった。

 全道から、帯広は班で税金の計算から、学習からなんでもやっていてすばらしいとよくいわれた。
私は、四つ葉班というところにいて、同じ床屋さんだったらおおよそわかるけれど、建設やらほかの業種のことなんかは、事務所に聞いたりして勉強していたな。

 当時役員さんは、自分の仕事を休んで、休んで。事務局も4人しかいなかったから、本当にがんばってもらった。

 毎晩民商民商とでかけていくでしょ。
うちの母ちゃんも怒っちゃって、「家族と民商とどっちが大切なの」と、辛かった。店じまいして、赤ん坊だった子どもをお風呂に入れて、その残り湯でオシメを洗って、母ちゃんにバトンタッチして民商にでかけていくものだから、どうしても遅刻するんだわ。

 そして、帰ってくるのは夜中の11時過ぎ、毎晩「民商は、いま作ったばっかりだから。もう少し待ってくれ」と「いま大事なときだから」と慰めて、そして子どもは大きくなった…

 母ちゃんのおかげで(一同笑)

 柚原さんの奥さんだとかね、そういった役員さんと家族が「力」をだした基礎があるから、今の民商があるということが、よーくわかる。助けてくれる人がいないから、自分たちでやるしかないと、がんばったんだよね。

 いやぁ、涙が出るわ…

 私がここまでして、民商の運動に参加していったのは、家族を守りたいというのと、やはり仲間たちと「がんばろうなぁ」とみんなで決意を上げた。それに、責任があるから、行かなきゃというのが支えだった。


全3回

帯広民商50周年記念対談①  帯広民商結成、そして初めての集団申告


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